2012年1月25日更新!!
【STEP118】アニアーヌの屈辱

 「ワイン生産は株式市場にそぐわない」という意見をよく聞きます。これはワイン生産が、葡萄畑や醸造・瓶詰め機器といった固定資産額の大きい、資本集約的な産業である一方、資本回転率が非常に低いからです。たとえば、同様の発酵タンクを用いるビール醸造では、発酵タンクを年に10回程度繰り返し使うことができるのですが、ワイン産業では通常、年に1回しか使いません。

ロバート・モンダヴィ

 現代カリフォルニアワインの父と呼ばれるロバート・モンダヴィ(1913 - 2008)は、ヨーロッパの最上に匹敵する高品質なワインの生産を夢みて、1966年にロバート・モンダヴィ・ワイナリーをナパ・ヴァレーに設立しました。同ワイナリーのリザーヴ・カベルネ・ソーヴィニョンは現在においても、カリフォルニアを代表するワインのひとつです。ロバート・モンダヴィは高品質のワインを生産しただけでなく、マーケティングにおいても異才を発揮し、ナパ・ヴァレーを世界のワイン地図に載せるうえで重要な役割を果たしました。ロバート・モンダヴィはまた、「ワインのある日常」を推進したひとで、1980年代に米国で反アルコール運動が再燃すると、医学的な裏付けを元に「節度ある飲酒はむしろ健康によい」と主張していました。

 私は1994年にカリフォルニアワイン産業の日本市場を担当する仕事に就いて以来、毎年のようにロバート・モンダヴィに面会してきました。仕事の相手としては非常にタフなひとで、自説を曲げない、屈強な精神の持ち主でした。私はさまざまな事柄で叱咤激励され、たくさんのエネルギーをいただいたのですが、私がもっとも感動したのは、彼の「財産は公共に資するためにある」という精神でした。実際彼は、自社で大金を費やして行ったリサーチの結果を、無料で他のワイナリーに公開するようなひとでした。

株式公開

 1993年6月10日、ロバート・モンダヴィ・ワイナリーは資本増強のために、新興企業向け株式市場であるNASDAQに上場しました。この背景にあったのは、1992年度の売り上げが154百万ドルで、税引き後利益が7百万ドルであったあった一方、事業拡大による有利子負債が126百万ドルに上っていたからです。

 また、当時の北カリフォルニアでは、葡萄樹を死に至らしめる新種のフィロキセラが発生し、ナパ・ヴァレーやソノマでは、早急に葡萄畑の植え替えが必要となっていました。ロバート・モンダヴィ・ワイナリーでは、全生産量の約15%を自社畑産の葡萄でまかなっていたのですが、葡萄畑の植え替えには20百万ドル以上の費用が見込まれ、また、ひとたび植え替えを行うと、5年間は満足な収穫を期待することができませんでした。

 さらに当時は、収穫量の減少によって栽培農家からの葡萄の買い入れ価格が高騰する一方、チリやオーストラリアといった生産国との競争のために、ワイン生産者は葡萄購入価格の上昇を製品価格に転嫁できずにいました。結果として、当時のカリフォルニアの小規模ワイナリーの多くが、資金の潤沢な巨大企業に買収されています。 ロバート・モンダヴィ・ワイナリーは株式公開によってこの難局を乗り越えることを模索し、ゴールドマン・サックス証券を主幹事として、ひと株当たり13.5ドルで370万株、総額49.95百万ドルを公募しました。ロバート・モンダヴィは株式公開を機に、経営の実権を長男のマイケル・モンダヴィに委譲しています。

株式市場からの圧力

 ロバート・モンダヴィ・ワイナリーが不幸だったのは、株式市場が高級ワインビジネスをよく理解せず、短期間でのリターンだけを求めてくることでした。モンダヴィ以前に株式公開していたワイン会社は2社のみで、どちらも購入葡萄や購入ワインから日常消費用ワインを瓶詰めしている、ビール会社のように資本効率のよい会社でした。ロバート・モンダヴィ・ワイナリーは、こうした最低価格帯の生産者と財務諸表を比較された結果、「株価が割高」と判断され、NASDAQ上場の翌週には、公募価格13.5ドルだった株価が8ドルを割り込み、半年後には6.5ドルにまで半減しました。株式市場からの圧力に初めてさらされた経営陣はこの後、売り上げ拡大路線へと舵を切らざるをえなくなります。

 この時点でモンダヴィ社の経営陣が考えたのは、あまり資産を増やさずに売り上げを拡大させる方法でした。モンダヴィ社は、1979年にシャトー・ムートン・ロートシルトとのジョイント・ベンチャーとして始めたオーパス・ワンのプロジェクトを通じて、バロン・フィリップ・ド・ロートシルトがどのようにして、リスクを取らずに果実を手にするか学びました。オーパス・ワンは当初、モンダヴィの所有する最上の畑のカベルネ・ソーヴィニョンを用い、ロバート・モンダヴィ・ワイナリーの設備を間借りして醸造されました。ファースト・ヴィンテージが1979年であったにもかかわらず、オーパス・ワンのワイナリーが完成したのは1991年のことでした。ボルドーの第一級シャトーであるムートンとモンダヴィが手を組んだというプレス・リリースを配信するだけで、世界中のメディアが取り上げ、当時の金額で百万ドル以上の広告効果があったとされています。

 株式市場からの圧力にさらされたモンダヴィ社は、オーパス・ワンでの経験を生かして、こんどは自分たちがバロン・フィリップの立場で、リスクを取らずに果実を手に入れる方法を模索します。この延長線上で、モンダヴィ社は1996年にチリのチャドウィック家とジョイント・ベンチャーを興して最高級のチリ産ワインを目指す一方、イタリアではフレスコバルディ家と合弁でスーパータスカンの生産に乗り出します。「オーパス・ツー」とか「オーパス・スリー」と呼ばれたこれらのジョイント・ベンチャーがオーパス・ワンと異なっていたのは、「セーニャ」および「ルーチェ」といった、自社畑の葡萄を用いるワインのみに特化したのではなく、購入葡萄や購入ワインを瓶詰めする「カリテッラ」や「ダンザンテ」といった、日常消費用のアイテムを拡充したことでした。こうした低価格帯の輸入ワインを、モンダヴィ社の既存の流通チャネルを使って米国市場で販売することにより、大きな相乗効果が生まれ、株式市場はこうした拡大路線を好感しました。

アニアーヌの屈辱

 モンダヴィ社が次に狙ったのは、ワイン生産国として最上と目されるフランスでした。1990年代末、米国のワイン市場が拡大する一方、カリフォルニアでの葡萄収穫量が需要の伸びに追いつかなかったため、同社ではすでに南フランスから日常消費用ワインをバルクで輸入し、カリフォルニアで瓶詰めして、「ヴィション・メディテラニアン」というブランドで販売していました。品質の良い日常消費用ワインの安定供給に窮していたモンダヴィ社は、人口2,000人弱の、南フランス・ラングドック地方のアニアーヌ村に照準を合わせ、地元の協同組合との共同ワイン生産計画を、アニアーヌ村議会に提出しました。これは、未開の山の斜面に50ヘクタールの葡萄畑を拓くため、モンダヴィ社に土地を99年間賃借する権利を与える、というもので、2000年7月、村議会は賛成多数でこの計画を承認しました。ラングドック地方は「大量の劣悪ワインを垂れ流している」と中傷される、フランスのワイン過剰生産の中心地とされているのですが、モンダヴィ社の南フランスでのビジネスを担当していたデイヴィッド・ピアソン(現オーパス・ワン最高経営責任者)は、「カリフォルニアの最先端のワイン生産技術と資本が投下されれば、1本60ドルを超える高品質ワインすら生産可能だ」と考えていました。このプロジェクトは、地元の葡萄栽培農家に安定的な収入を保証し、地域に雇用を創出するという意味で、アニアーヌ村にとっても非常に有益なものになるはずでした。

 しかしながら、村議会が計画を承認した直後から、過激な反対運動が巻き起こりました。環境保護団体や共産主義者に扇動された住民運動は、自然破壊やグローバリゼーションへの反対をスローガンとし、この運動の中心を担ったのが、アニアーヌ村の世界的に著名なワイン生産者、マス・ド・ドーマス・ガサックのエメ・ギベールでした。ギベールは、経営していた皮手袋の工場が、アジアからの安い輸入品によって市場を奪われ、倒産に追い込まれた経験があり、グローバリゼーションや外資の導入に拒絶反応を示しました。「伝統やテロワールを尊重するフランスワインを、マクドナルドのような、無味・無個性な工業製品にするな」というのが彼の言い分でした。2001年3月に行われたアニアーヌ村の村長選挙では、モンダヴィ社の進出計画が争点となり、「モンダヴィ社はアニアーヌ村民から搾取するだけで、我々にはなにも残さない」と主張した反対派の共産党候補、マヌエル・ディアスが当選しました。この結果、モンダヴィ社はプロジェクトからの撤退を余儀なくされ、また、ヴィション・メディテラニアン自体も他社に売却するに至りました。

 この「アニアーヌの屈辱」以降、モンダヴィ社の株価は低迷し、2004年、のちに世界最大のワイン会社となるコンステレーション・ブランズ社に買収されることになります。その一方で、アニアーヌ村の葡萄栽培農家では、毎年収穫量の15%あまりが、行き場のないまま売れ残っているということです。

第120話『パリスの審判(3)』 のワイン:
マス・ド・ドーマス・ガサック 赤

 マス・ド・ドーマス・ガサックは、1970年にこの地に移り住んだエメ・ギベール夫妻が始めたワイナリーで、ボルドー大学のワイン地質学者アンリ・アンジャルベール教授の勧めによって1972年、ボルドーのトップ・シャトー由来とされるカベルネ・ソーヴィニョンを植えた。ファースト・ヴィンテージとなった1978年には、当時シャトー・マルゴーやオー・ブリオンの醸造コンサルタントでもあったボルドー大学のエミール・ペイノー教授が醸造を指導し、1980年に「ヴァン・ド・ターブル・ド・フランス」(フランス産テーブルワイン)という、最下級の公的品質カテゴリーで発売された。1982年、フランスで絶大な影響力を誇るゴー・エ・ミヨー社のワインガイドが「ラングドックのシャトー・ラフィット」と絶賛したことから、南フランスの最良のワインと目されるようになった。モンダヴィ社がアニアーヌ村を進出候補地に選んだ背景に、マス・ド・ドーマス・ガサックの存在があったことは疑いようがなく、実際、アニアーヌ進出計画に際して、マス・ド・ドーマス・ガサックに提携をもちかけたとされている。後年、オーパス・ワンのレセプションで、デイヴィッド・ピアソンに「エメ・ギベールと『オーパス・フォー』の話をしたか」と尋ねたところ、彼は微笑むだけで答えなかった。ラングドックにボルドーという外部の技術を初めて持ち込んだエメ・ギベールが、「ラングドックの伝統を守る」という理由でカリフォルニアからの技術・資本移転を拒絶したのは、歴史の皮肉なのだろうか。

 マス・ド・ドーマス・ガサックの赤は、ボルドー風のデリケートなワインで、特殊な野生酵母ブレタノマイセスに由来する、腐葉土や干し草の香りがする。フランスワインを飲みなれた消費者には好まれるが、新世界のワインメーカーの間では「醸造上の欠陥」とされる。
(原稿執筆時点の2008年ヴィンテージ750mlの楽天市場最安値は4,620円[税込]) 

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